風邪

金曜日から風邪気味だったが、土曜日は朝から発熱。

行き付けの医者で薬を処方してもらい、土日の2日間、
じっと家に閉じこもったが、症状は変わらず…

今週は忙しくて仕事は休めない…

ミスマッチ

朝、通勤電車。

4人掛けボックス席。

私以外は3人の高校生…男子1人、女子2人。

同級生らしい。

  ○○○のチケット2枚Getした。

A   へ~。なんぼ(いくら)やったん?

男  八千円。

   一緒に行くヒト探してんねん。

A へ~。

男  行かへん?

A え~誘ってんの~?

   興味ないわ~。

B 行きたいな…

男  あっ、弟と行こかな…

結婚は人生の?

結婚10周年を迎えた。

それにしても、「結婚は人生の墓場である」とは誰が言いだしたのか。

結婚する前の恋愛中は、お互いに相手を思いやり、美しい部分だけを
見ようとし、見せようとする。
お互いの思いや行動を束縛しない。

しかし、結婚すると
「自らの思いや行動を制限せざるを得ない」=「自らを殺さざるを得ない」
から「墓場」になるのだろうか。

今では結婚は大抵自らすすんでするから、それ(「人生の墓場」)と知って、
結婚しようとするヒトはいないであろう。
だから、結婚してから「失敗した」と思っているヒトが言うのだろうか。

わたしの場合は、結婚したことを「失敗した」とは思っていない。
かと言って、「うまくいった」かどうかはわからない。

子をひとり授かり、
その子が今のところスクスクと健康に育ち、
夫婦仲は取り立てて悪くもない。

こんな状態が続くことが、「うまくいった」と言えるのか。
どのような状態なら「うまくいった」と言えるのかわからない。
離婚しない程度に続いていれば「うまくいった」のか。

「結婚は人生最大のギャンブル」とも言うが、負けない程度に続けられれ
ば、いつまでも楽しんでいられるのか。

夫婦になるということは、異文化で育った者同士が、お互いの文化の融合を
図ろうするものではない。

お互いに、生まれた時から全く違った文化

 ~家族や、町内会や、学校や、会社や、サークル活動や・・・・~

の中で、それぞれ独自の自我を形成してきたのであり、
夫婦になったからといって、
 簡単に相手の文化に合わせたり、
 お互いの自我を足して二で割って妥協したり
できるものではない。

結婚したヒトならわかるであろうが、最初は大抵「どうでもいいこと」から、
相手がまるで異国人であるかの如くカルチャーショックを受ける。

 食事の仕方、
 衣服のたたみ方、
 一日に何回歯を磨くか、
 風呂は夕食前か、寝る前か、
 ベッドで寝るか、布団で寝るか、
 寝る時に蛍光灯は完全に消すか、豆球だけは点けておくか、
 ・・・

どちらでもよいことばかりであるが、相手に自分と違う行動をとられると
なぜか落ち着かなかったり、
モノによってはどちらかに合わせねば一緒に暮らしにくいこともある。

昔のように、結婚が「家」と「家」の繋がりであったような時代には、
妻が夫の「家」に合わせるのが当然だと考えられていたから分かり易かった。

今は、
 「核家族化」が進み、
 「多様な価値観」が認められ、
 「男女共同参画社会」という新たな信仰が生まれ、
 ・・・・
明確な基準がなくなってしまった。

「どちらでもいいこと」だから、どちらかに合わせる基準(ここでは「夫の家」)
があるとわかりやすいのであるが、
「どちらでもいいこと」を、合わせる基準がなくなったから、何だかよくわから
なくなってしまう。

例えば、「どちらでもいい」はずであるが、

 道路を走る車は、
   日本では「左側通行」、アメリカでは「右側通行」

  食事の時、
   日本では茶碗を持たなくてはいけないが、韓国では持ってはいけない

 エスカレーターを昇る時、急がないヒトは
   関西では「右」に寄り、関東では「左」に寄る(反対だったかな?)

  ・・・

本来はどちらでもいいが、どちらかに決めておかないと、一定の範囲の社会
では、非常に都合が悪いことが起こる。

家族も小さいが立派な社会である。

実際には、いつの間にか自然にどちらかの文化に合わせるようになっているが、
両者の中間に落ち着いているわけではなく、
ケースバイケースでどちらかの文化をうまく採択しているか、
場合によっては新たな独自の文化が創造されている
こともあるかもしれない。

何れにせよ、自分の文化に固執して、相手の文化を認められないようだと
夫婦仲はうまくいかない。

自分に特別の「こだわり」があるなら、それだけは相手に認めてもらう努力
が必要かもしれないが、
「どちらでもいい」と思うことは、お互いが相手に合わせてもよいと思って
許容範囲を広くしていれば、お互いが「思いやりのあるヒト」と勘違いして、
うまくいくかもしれない。

   そんなに甘いモノではない・・・
    「相手が何でも許してくれる」と思って「甘く」見ていると
    いつか大きなしっぺ返しが・・・

犯人は誰だ

TVで「無職の若い男が、白昼コンビニに押し入り、店員を脅して
現金を盗んだ。」というニュースを見たとする。

我々は、この犯人を「何というバカなヤツだ!」と思い、この男に
「悪人」というレッテルを貼る。

しかし、一方で「就職難で仕事にも就けず、バカだが不幸な青年」と
思い、悪いのはこの青年ではなく、この青年にこのような凶行に追い
込んだ「社会(環境)」だ、と思うヒトがいるかもしれない。

前者の立場は、「ヒト(犯人自身)」が「悪」であり、
後者の立場は、「社会(環境)」が「悪」であり、むしろヒト(犯人)
も被害者のひとりだとみなす。

このどちらの立場に立つかは、
 いつも前者の立場に立つヒト、
 いつも後者の立場に立つヒト
がいるわけではない。

誰でも、常にどちらかの立場を「無意識に」使い分けている。

どちらの立場に立つかは大凡決まっていて、
さきほどの例で言えば、「犯人」が
          赤の他人
 あるいは、気にくわない知人
 あるいは、嫌いなヤツ
 あるいは、蹴落としたいライバル
 あるいは、敵(てき)
などの場合は、「無意識に」前者の立場に立って相手を評価し、

 「犯人」が、
          身内
 あるいは、友人
  あるいは、会社の同僚
 あるいは、好意を寄せているヒト
  あるいは、尊敬するヒト
などの場合は、「無意識に」後者の立場に立って相手を評価する。

少し冷静なヒトなら、
前者の立場に立ちつつ、「後者の場合もあり得る」などと考えるかも
しれないが、常に一々両者の立場で考えることなどないであろう。

意識したことはないが、友人や夫婦の間で起こったトラブルも、
最初のうちは、後者の立場で相手を思いやる気持ちが強いが、
知らず知らずのうちに、前者の立場で考えるようになってくると、
危険信号なのであろうか。

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

最近のトラックバック

無料ブログはココログ